知りませんでした。
宮崎駿さんが、宇都宮に住んでいたことは知っていましたが、鹿沼にも住んでいたということを。
それも、よく知っている所にいたらしいです。
NHKも取材に来たことが有るそうですね。
ネットで調べただけですので、定かではない部分も多いですが、なかなか面白いので、まとめてみました。
まずは、生まれたのが1941年1月15日
東京での空襲を避けるために、宇都宮へ疎開してきたそうです。
では、なぜ宇都宮?かというと、
父親が役員をやっていた(経営していたと書いている人もいます)軍事会社、「宮崎航空興学」という会社の「宮崎飛行機」という工場が鹿沼に有ったためだそうです。
父親が「宮崎航空興学」という会社の子会社である「宮崎飛行機」(宮崎航空機製作所)の社長さん、ということらしいです。
「宮崎航空機製作所」の工場は、新鹿沼駅の西側に有った
この会社は、宇都宮の富士重工(昔は中島飛行機)の下請けだったそうで、戦闘機の部品を作っていたとか?
その工場はどこに?と思って調べたらわかりました!
JR鹿沼駅の南西の方だそうです。
でも、ここって傾斜地であまり工場などには適していないような気がしましたが、こんな所にあったんですね。
この工場も1000人くらいの従業員がいたそうですから、かなり大きかったようです。
ですから、宮崎さん自身が戦時中で貧しい暮らし、ということは無く、それなりの暮らしをしていたんですね。
宮崎駿さんが住んでいたのは、鹿沼の御殿山病院
それでは、宮崎駿さんが実際に鹿沼に住んでいたのはどの辺り?
と言うことになりますが、それは、御殿山病院の所だそうです。
土地の面積が約2000坪!
この辺り、私が小学生でカブスカウトの頃に、山の中を歩いたりしていました。
でも、よくわからないのが、いったいいつ頃住んでいたのか?
宇都宮の空襲で宇都宮から逃げたのが、1945年、4歳の時これは間違い無いようです。
周りにいた人を助けられなかった、ということが強い記憶として残っているようです。
その時に、鹿沼に逃げてきたのか、がイマイチはっきりしません。
でも、多分そう。
宇都宮に、小学3年(4年の時に9歳)の時まで住んでいた、という情報もあるのですが、
この辺りは曖昧になってしまいます。
宮崎駿さんの家庭は裕福だったので、車を持っていたそうで車で鹿沼と宇都宮を行き来していたのでしょうか?
ところで、こんなことを書いていると気になる作品が浮かんできますね。
そう、あれです。
「 となりのトトロ 」
主人公、サツキ:元の設定は10歳、後で12歳に変更
サツキの妹、メイ:4歳
ほとんど、鹿沼と宇都宮にいた時に合致するんですね。
それに、メイちゃんがお母さんに届けるのは「とうもろこし」
そう、鹿沼にはトウモロコシ畑が有るんですよね。
私もよく食べました。
鹿沼のトウモロコシは甘くてとても美味しい!
1945年の頃も有ったのかな?
2人姉妹のお母さんは入院しています。
「七国山病院」という病院です。。
「七国山」は実際に町田にあるそうなのですが、、、
ちょうど、宮崎駿さんが小学1年の頃、やはり母親が病床にふけっていたそうです。
作品の中では「七国山」と言われていますが、、、、
ここから超拡大解釈!!
サツキとメイの家と病院は、バイクに乗ってきたカップルの言葉からかなり遠いとわかります。
潜在的に、宮崎さんの記憶の中で潜在的に、鹿沼と宇都宮の関係が混じったのでは?
どう言う事かと言うと、サツキとメイの家は鹿沼に位置すると、病院は宇都宮に有るのではないか?
などと、勝手に思ってしまいました。
そう思ってくると、「トトロ」に出てくる田んぼや山はまるで鹿沼や宇都宮、
最後の猫バスで飛ぶシーンは、鹿沼街道あたりか?
等と考えられますね。
ちなみに、母親が入院していたのは、御殿山病院では?
という考えも有るようですが、御殿山病院ができたのは1946年、
宮崎駿さんが5歳の時です。
今回書いたことは、私の想像も多いですが、
大切な事実は、鹿沼にも宇都宮にも住んでいたということ。
その時期が、あの「となりのトトロ」の時代に合っている、ということです。
鹿沼や宇都宮で過ごした時期が、この作品に大きな影響を与えている、と考えるのは難しくないでしょう。
異論も多いと思いますので、他の情報を知っている方がいらっしゃいましたら、ぜひ教えてください。
参考にしたHPを下に掲載しておきます。
http://ja.wikipedia.org/wiki/となりのトトロ
http://ja.wikipedia.org/wiki/宮崎駿
http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=321383&id=23236091
http://www.fukuoka-h.tym.ed.jp/ja/students/06wp/13/06/akatuki.htm
http://www.kyoai.ac.jp/college/ronshuu/no-05/nishikawa.pdf'
http://sbshinbun.blog.fc2.com/blog-entry-154.html
http://juntyan.blog46.fc2.com/blog-entry-233.html
http://wiki.kumetan.net/index.php?宮崎駿
私は宮崎駿の兄です。
私は昭和13年7月6日生まれ、駿は昭和16年1月5日生まれですから、二才半
の差があります。
宇都宮へは東京の曙町(現本駒込)から疎開したのです。
最初は宇都宮市塙田で、その後、松が峰へ転居したのです。
昭和20年7月12日の宇都宮大空襲で、鹿沼に逃げ出したのです。
たまたま、家に泊まっていた母の弟が、小型トラックで来ていたのです。
ガード下に非難していたのですが、叔父の「車で・・・」と言う提案で、
鹿沼に向けて逃げ出したのです。
此の晩の空襲は、今迄のコースと違い、鹿島灘から来襲し、東から西へと
の爆撃進路でしたから、西に位置している鹿沼に向かっていた私達の車は
西に向かいつつ爆撃するB29とやな自信路だったのです。
走る道路の両側で、焼夷弾が落ちて来る様を、いやっと言うほど見せられたのです。
叔父は、これでは鹿沼に行き着けぬと判断し、途中に知り合いがあるから
頼んでみると「熊倉さん」という大きな農家にお願いしたのです。
そこで、一晩泊まらせて頂き、翌日、鹿沼に向けて出発したのです。
鹿沼には、父の兄が肺結核療養の為に確保していた「別荘」と呼んでいた
建物があり、当時は既に、東京からも親戚達が逃げて来ていたのです。
此の「別荘」と言うのが、御殿山の直ぐ横にあり、後に、結核療養所に
なった所です。
航空機工場は伯父が社長でしたが、肺結核にかかり、父が専務として代行
して居たのですが、戦後、帝国製麻に売ったと聞いています。
鹿沼市の方達が「勤労奉仕」で働いていて、一番おおい時で、2800人も
居たと聞いています。
我々が鹿沼の「別荘」に住んだのは、昭和20年7月から、21年の1月頃迄で、ほんの半年ばかりですが、鹿沼の生活の記憶は鮮明に覚えています。
長くなるのでこの辺で失礼します。
宮崎 新