前に紹介した「陸前高田アムウェイハウス」は、嵩上げ(かさあげ)された高台に建てられています。

他にも、いくつかの遺構が残されているので紹介します。

米沢商会ビル

この写真は「陸前高田アムウェイハウス」から、建物を見たところです。
奥の方には「東日本大震災 津波伝承館」が見えます。

写真を見ると、少し地面に埋め込まれているように見えますね。

これは、地盤を全体的に嵩上げしているためです。

この米沢商会ビルは、他の遺構とは大きく違う点があります。

それは、個人の意志で残したと言うとです。

他の建物と一緒に解体して貰えばお金もかからなかったのに、思い出がある建物で震災経験を伝えたいと言う思いから残すことを決心したそうです。

と言うのも、このビルの持ち主である米沢祐一さんの両親と実弟は避難先で津波にのみこまれ帰らぬ人となったのですが、米沢さんはこのビルの上で生き延びたという経験があるからでもあります。

ひどい痛みように見えますが、ビルの安全性に問題はないと判断されたそうです。

ただ、ポツンと残ったように見えるビルですが、さまざまな思いが詰まっているのですね。

道の駅 高田松原

私の思い出も詰まった建物が、遺構として残され周りも整備されました。

それが「道の駅 高田松原」です。

写真の奥に見えるのが「東日本大震災 津波伝承館」です。
すぐ隣にあります。

この建物は、海側が階段状になっていて登ることができました。

きっと、その階段からは美しい松並木を見ることができたのでしょう。

この建物の思い出とは、震災後にエスホームの社員と仙台からずっと北上した時の事です。

そろそろお昼をどこかで食べたいな、と思い始めていたのですが、なかなか食べることができるお店が見つかりません。

そんな時に向かったのが陸前高田だったのです。

街に近づいた時に遠くから見えたのがこの「道の駅 高田松原」の建物でした。

「あそこでお昼にしよう」

と言って車で近づきました。

そこで見たのがこの建物。

津波を甘く見ていた事を実感しました。

あの時の心境は、映画「猿の惑星」で「自由の女神」を見た時の感覚に近いです。
わかる人、いますか?

当時は柵など無かったため、中に入ったり階段を登ったり。
建物の中にある鉄筋造の壁まで破壊されているのを見た時には、津波の恐ろしさを実感しました。

陸前高田の街並み

陸前高田にも、大きなスーパーなどが立ちました。

商店街もできています。

キレイにはなりましたが、なんとなく寂しさを感じてしまうのは私だけでしょうか。

みやぎ三陸 黄金街道

今回走ったコースは、この観光案内板のあたりです。

右側の地図を見てください。

上の方に「赤い現在地」と書いてありますね。

そこから、下の方の石巻雄鹿半島まで走りました。

そうか、あそこは黄金街道と呼んでいたのですね。

この看板横から見える海がこちらです。

静かであれば、とってもキレイな海なのです。

次回は、石巻市 大川小学校を紹介します。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です